「這いうねる」というのは、私が高校時代から使っているシリーズ名です。シミュレーション同好会の上級生である三浦満泰先輩から「そんなこといってると、這いうねる矛盾と呼んじまうぞ」と笑われたのをそのままいただきました。私の屈折して屈折して螺旋階段のようにひねくれた視点をよく表現しているように思います。ナイアルラトホテップの別名「這い寄る混沌」から取ったことはいうまでもありません。
 今までに旅行報告「這いうねるレポート」と「這いうねる事典」、近況報告である「這いうねる伝言板」、そしてネットゲーム同人誌「這いうねる情報紙」などを発行してきました。そして今度は日記です。思い付いたときに思い付いたことだけ書きますので、こんな馬鹿ページの作り手がどんな奴か興味があるという酔狂な方だけお読みください。

過去の日記

 1998年の日記
 1999年の日記
 2000年の日記
 2001年の日記

 2002年1月1日〜1月10日



2002年1月11日

 今日もやっぱり動けない。
 以前なら一日寝込めばなんとか動けるようになったのだが。おそらくこれが老いというヤツなのだろう。仏教の四苦は生きること、死ぬこと、病に伏すこと、老いることだ。この四つの不条理を耐えるのが人間という生き物だという。
 だからとっとと解脱してしまえというのが仏教だとするならば、解脱に至れない者たち、これから生まれ出ずる者たちのことを考えて解脱の一歩手前でとどまれというのが道教……であるらしい。道教のことは詳しくないので受け売りなんだが。
 ともあれ四苦という不条理だ。
 あまぎんくんに紹介されてしろはたというページを訪問したのだが、ここに「おかんの呪い」というユニークな用語が使用されていた。「おかん」というのもひとつの不条理なのだろう。
 しろはたではこれを日本人特有の超自我として使用しているらしい。超自我というのはフロイトの用語で、本人が意識せずにそれに従う行動原理を示す。神、父親、道徳その他が入り交じったものだ。
 フロイトという髭のおっさんは父親が怖くて怖くてたまらなかったようで、そんな自分を人間の典型として理論を構築した。おかげでフロイトがまだ生きているうちから精神分析学は無数の派閥ができてしまい、なまじっか正しい部分があるために現代の若者にまで悪影響を与えている始末だ。
 日本人にとっての超自我は神や父親ではなく(もちろんそれを超自我としている人もいるはずだが)世間ではなかろうか。そしてその代表として「おかん」を考えるなら、しろはたはかなりのところまで正しい。
 ただ私の勘では、もはやおかんすら超自我として機能していない人がかなりの人数に達しているのではないだろうか。
 どうして人を殺してはならないのか分からない、なんて言い出す人がでていることからの推測だ。論理だけで考えれば、人を殺してはならないのは自分が殺されないようにするためであって、完全犯罪であれば殺すことのデメリットを受けずメリットのみを享受できることになる。
 しかしこんなことを考えるだけならともかく、実行に移すとなると、もはやそれはまったく異なる精神構造を持つ生物であると判断しないわけにはいかない。それこそが新人類であって、生物学的には同一であるがまったく異なる行動原理を持つ生物なのだ。年寄りが若者を理解できない、というのとはレベルが違う。
 などということを考えながら「俺の屍を越えてゆけ」をプレイ。ついに天界最高の氏神が生まれた。8柱の氏神がおり、それが天界9位までを占めている。なんて一族だ。


2002年1月12日

 動けないので榊涼介『ガンパレード・マーチ 5121小隊の日常』読了。突撃壬生屋をどう活用するか速水と芝村が相談して成功する話と、田代が素敵な話、そして壬生屋の剣を鍛える話。遠坂がおぼっちゃんな話もおまけでついている。
 そそられたぞ、ストライダム! ということで「高機動幻想ガンパレード・マーチ」より詰めガンパレ「シバムラティック・バランス」をプレイして過ごす。
 絢爛舞踏になるだけなら、このゲームは難しくない。技能をいくつかレベル3にして、攻撃型電子精霊を作りまくり、N.E.Pをふたつばかり陳情すれば、あっさりと絢爛舞踏になれる。そりゃもう、呆れるほど簡単に。
 しかしどこぞの王さんもいっているではないか。「えらくなっても女にもてなければ、な〜んの意味もない」と。二村ヒトシの著作などそのものずばり『すべてはモテるためである』だ。ここはひとつモテモテ王になって……
 と思ったはずが、いつの間にやら芝村舞とのみラブラブになっている。何故だ。今回は事務の絢爛舞踏・加藤祭で行こうと思っていたはずなんだがなあ。不思議ふしぎ。たぶん芝村が隙だらけだからだろう。
 飽きたのでSランクでクリア。詰めガンパレより「絶望の日」をプレイしはじめる。
 おお、これは難しい。というか、時間がかかる。1週間ほどプレイして、やっとマイナス5万だった発言力をマイナス4万にする。先は、長い。


2002年1月13日

 駅でばったり柿二郎くんと出会う。いっしょに通勤しながら、長距離通勤を嘆く。なんでも柿二郎くん、事務所に近い社宅を上司に取られてしまったのだそうだ。まったく部下をなんだと思ってんだ。
 という夢を観た。
 まだ朝早かったので、寝直す。
 近所の小学校でデギン・ザビの葬儀をしていたので参列する。私をガルマの仇と勘違いした女性から逃れて少佐のところに行くと、ボルシチを振る舞ってくれた。
 「妻の隠し味をようやくもうひとつ発見したよ」
 カリーニン少佐はミソペーストとココアパウダーの他に、粘土を入れた地獄ボルシチをご馳走してくれた。水飲み場で口中の粘土を掻き出していると、デギン・ザビの柩が置いてあった。蓋が開いていたので覗くと、中にはどろどろの死体がたゆたっていた。ソーラレイで焼かれるとこうなってしまうのかと、人生の諸行無常を思う。
 という夢を観た。
 妹も夢を観たそうだ。赤毛のアンが「私を見て!」と駆け寄ってくる夢だそうだ。
 仕方がないので「赤毛のアン」の続きを観る。
 観終えて、私はようやく入手した「暴れん坊プリンセス」を半分までプレイ。うーむ、まあまあ。戦闘は愉しいかな。一度クリアして、戦闘だけを純粋に愉しめるようにしてしまった方がおもしろくなりそうだ。
 ストーリーは小説版で知ってしまっていたので、驚きはない。もうちょっと変えればよかったのに。「まりんとメラン」はアニメ版とマンガ版でかなり変更を加えているので、どちらも愉しめた。
 ともあれストーリーモードはもっとテンポ良く進んでよいのではないかという気がする。このゲームをゲームたらしめているのは戦闘、それも大苦戦の戦闘なのだから。三石琴乃のしゃべくりなどどうでもいい。……そういや無駄に豪華な声優を使ってるよな。


2002年1月14日

 「赤毛のアン」の続きを観る。アンがクイーン学院に行くようになったあたり。
 当時のカナダと現代日本とでは風習が違う。かつて学問の王は詩学であり、詩を暗唱することが教養であった。そんなことを妹に吹き込む。
 ふと山登りの話になったので、山登りもまた教養であったという話をする。旧制大学のころは、山登りをすることが教養だったのだ。「新世紀エヴァンゲリオン」で冬月先生と碇ユイが山登りをしているのは、つまりそうゆうことだ。
 どうして山登りが教養なのか分からないが、江戸期において剣道場に通い免許皆伝を得ることが教養だったのと同じようなものではないかと推測する。有名な道場に行けば有名な人物がおり、そのような人とコネクションを持つことすなわち教養だった、という発想だ。
 浅羽通明『大学で何を学ぶか』にはコネクション作成機関としての大学が、特に東京大学を例にとって詳説されている。私は日本の大学など西洋の大学とは成立からして異なるのだから、それで十分だと思っている。要は多くの中流人を生み出し、大卒と呼ばれる中流の能力を持った存在を大量に安定供給することが使命ではないかと思うのだ。
 女学校出身の妹は、母校が潰れないだろうかというもっともな疑問を口にした。男子校出身の私は容赦ないので、女学校が女学校として生き延びる意義はほとんど消滅したのではないかと応える。
 ただし男女平等といいながら異なる存在は不平等に決まっており、本質的平等などという妄想が妄想である以上決して実現しないのだから、ここにつけ込むことで生き延びることはできるだろうと付け加えた。
 それではあんまりだというので、男女平等を実現するためには男性にこそ家政学(今は洒落て生活科学などというらしい)を学ばせるべきではないか、少なくとも男子生徒に家庭科を学ばせる理念を徹底するためにはそうするべきであるという意見を述べ、さらに「性別に不自由である」という言い方をした上で、被差別者であることで持つことができる視点を活かした研究をすることは可能だろうと告げた。
 それは一体なにであるかというので、たとえばオカマやオナベ、ホモセクシャルにレズビアン、飾ったことばでいうなら性同一障害者を積極的に入学させ、それらの心理を研究することはジェンダー研究に大して大いに資するものであろうと応える。ただしそのような大学に入学したがる人がどれほどいるのかは、極めて疑問である。
 父の誕生日が近いので、妹が予約した店に行く。還暦の祝いなのだ。
 なかなかいい店で、牡蠣豆腐にあんをたっぷりからませて食べると柚子の香りが高く、とても美味しかった。祝いであることを事前に告げてあったので、鯛が出された。よく焼いた鯛はほの甘く、ピラニアでもここまではするまいというほど骨だけにしてしまう。美味い魚に対する礼儀だ。
 連れて行った祖母も満足であるようで、安心する。
 しかし父も大変だ。いつまでも若々しいのは嬉しいのだが、若々しいために老け込むことを許されていない。父と直接会った人なら、あの人が老いたところなど想像もつかないことに同意してくれるだろう。
 先日、水木一郎をテレビ番組で見かけた。水木一郎といえば兄貴と呼ばれるアニメソング歌手だ。だが無理に若作りをして出演している様は、痛々しかった。「真ゲッターロボ」主題歌「今がその時だ」は、水木一郎があと十年若ければ名曲だったろうと思わせる歌だった。
 父には、自然な老いを迎えてもらいたいものだ。
 などといいつつ、妹はマウスパッドとハンドレストをプレゼントしていた。そうするように唆したのは私だ。最近は将棋に飽きたのか、ソリテアばかりしているのだ。手首を痛めてしまっては、大好きなテニスもできなくなるではないか。


2002年1月15日

 インフルエンザの猛威から一週間。ようやく身体も動くようになってひさびさに出勤。 なんだか男塾のような気分で机を観ると、書類が山積みになっていた。まあ、当然といえば当然か。予定表を作成し、さっさかさっと処理。すり足とパンチだけで戦っている気分。いくつか積み残しは出たが、病み上がりとしては順調な進行状況だ。
 さすがにまだダルいので、少し余裕をもって帰宅。少しというのは、つまり午前様にならないということだ。
 エルスウェア様「パラダイス・トリガー」のリアクションが届く。ざっと読む。例によって活躍はしていないが、活躍しないようなアクションをかけているのだから当然だろう。
 「暴れん坊プリンセス」クリア。なるほど、小説版とはこのあたりが変えてあるわけか。大した違いじゃないけど、違いは違いだ。さて、これで戦闘を愉しむことができるな。


2002年1月16日

 入力作業。
 朝に1時間、昼食後に1時間、残業して1時間ばかり入力しようと思っていたのだが、ふと気がつくと7時間ばかりも入力していた。
 おかげで予定よりも作業は進んだが、肘が痛い。あと、他の仕事が全然できてない。逃避行動だねえ。困ったもんだ。
 肘が痛いので書類の整理をしていたところ、私のやることなすこと気に入らない人が、そんなことは人にやらせて貴方にしかできない作業を進めろ、という。前に私の仕事を他人にやらせたら、そんなことは自分でやれといっていたというのに。
 しかしこの人の存在は私に人生の不条理を思い出させてくれるし、論理的整合性はないもののその局面局面では必ずしも間違っていない。たぶん、今の私には必要な存在なのだろう。
 秋月りす「OL進化論」を読む。これはどこから読んでもいいし、読まなくてもいいというところが素晴らしい。
 そういえばファミリー4コマで愉快作品を開拓しようと考えたことがあったのだが、小池田マヤくらいしか見つけられなかった。
 廣井ちゃんにおーはしるい「会計チーフはゆ〜うつ」を勧められたのだが、これはすでに読んでいる。職業柄、会計には興味があるのだ。しかし内容は冴えない会計チーフが優秀な女性職員に囲まれてだらだらするという内容で、婚期を逃しそうな職員がほのかにチーフのことを想いつつその想いを打ち消すというよくある内容で、人の恋愛話に興味のない私にはあまり興味をそそられる内容ではなかった。
 いやでも、仕事のできない会計チーフになって、毎日しょんぼりしながら女性職員に養ってもらうというのもいいなあ。何しろ頭を下げるだけならタダだ。ジラフじゃないので「ぼくはヒモじゃな〜い!」などと叫ぶことも、私ならしないだろう。自分の遊ぶ金だけ稼げれば、それでいいや。
 自堕落なことを考えたところで、「OL進化論」に話を戻……さない。
 ○○進化論というタイトルを日本で初めてつけたのは、穂積陳重であるといわれている。いったのは大学の恩師である堅田剛教授だ。穂積陳重の「法律進化論」は明治時代に書かれた法哲学書で、残念ながら私は読んでいない。
 しかし岩波書店から出ている『法窓夜話』や『復讐と法律』は愉しく読んだ。
 私は文章の巧い人が好きだ。その点、穂積陳重は素晴らしい。法を学ぶ人は、ぜひとも『法窓夜話』を読んでいただきたい。
 ちなみに『続・法窓夜話』はダメ息子が編纂した代物で、あまりお勧めできない。穂積重遠という出来の悪い息子は穂積陳重の子供とは思えないほどダメで、東大法学部の教授になったり最高裁の判事になった程度に留まった。民法を起草したり日本初の博士になった父親と比べては悪いのだろうが、それにしても情けない。
 さて。
 登山が教養であったことについて、あれは登山がパイオニアワークであったからだという指摘をいただいた(みやかわさんありがとうございます)。なるほど、開拓すること、最前線に立つことが教養、ということか。
 もはや教養のなんたるかが分からない時代だ。教養を簡単に定義すれば、当然知っておくべき知識の総体、それを身につけたことで得られる心の豊かさ、ということになるだろうか。しかし何を知っておくべきかなど、もはやさっぱり分からない。たぶん私が無教養で、オタク的教養しか持っていないからだろう。


2002年1月17日

 作戦会議。
 血のバレンタインデーが迫っている。これは熊本城攻防戦にも匹敵するイベントなので、課内全員参加で作戦会議が実施され、各人少なくともAランクまで能力値を上昇させるようにとの指示がでる。
 私はすでにSランクなので、一日中攻撃型電子妖精を作り続ける。新人くんがAランクになったら次の作戦行動に移る予定。
 疲れたので早めに帰宅。
 ふと思い出して書店に行く。楳図かずお「漂流教室」を読みたくなったのだ。なんでも最近、テレビドラマになったとのことで、妹が読みたがっていた。
 「常盤貴子が出るんだけど、どんな話なの?」
 「その人、小学生?」
 「いや、大人だけど」
 「じゃあ、お母さん役だな。初回と最終回だけ登場するんだ。俺も十年以上前に一度読んだだけなんだが、こんな話だった。主人公は母親と大げんかして、おまえなんか死んじまえ!と叫んで登校するんだ」
 「主人公って、高校の先生?」
 「いや、小学生。大切にしていた真っ赤なミニカーを捨てられたのに腹を立ててさ。すると小学校が大爆発。消滅してしまう。実はこれ、テロリストの爆弾が起爆剤となって小学校を未来に転移させちまってさ。ともあれ主人公は母親を許すことができない、母親は主人公に謝れない、というドラマチックな状況を引き起こすんだ。子供にも親にも、これって滅茶苦茶悲しいことだろ」
 「主人公、高校の先生なんだけど」
 「それ、主人公じゃない。途中で用務員さんに殺される役」
 「用務員さんって、なに?」
 「小学校ごと転移するから、大人は先生と用務員さんだけ。で、用務員さんが発狂して先生や児童をぶっ殺しはじめる。燃えるお兄さんもびっくりな展開だね。他にも愉快キノコを食べて発狂して怪物になっちゃう女児とか、伝染病大流行プール攻防戦なんかがあって、児童が次々と死んでいく。そりゃもうあっさりとぼろぼろと」
 「補習に来てる7人くらいが登場人物なんだけど」
 「そのくらい最初の15分で全滅だよ。ドラマの最短記録ができるな」
 「……なんか、違う。他にどうなるの」
 「主人公が戦いの直前に虫垂炎になるんだよ。それを医者の息子が手術する。右手にカッターナイフ、左手に図書館の人体図鑑で。むちゃな話だろ」
 「それ、保健の先生とかじゃなくて、医者の息子なの? せめて医大生とか」
 「単なる医者の息子だって。小学生だし」
 「むちゃすぎ」
 記憶だけで説明したので、さすがに不安になって、確認したくなった。さあ、どの程度まで覚えているかな。


2002年1月18日

 「漂流教室」文庫版全6巻をいっきに読む。
 うおう。うおう。うおう!
 記憶よりも遙かにおもしろい。通常、作品は記憶の中で美化され、実物よりもおもしろくなる。しかし「漂流教室」は、実物の方がおもしろかった。
 おそらくは、楳図かずお作品には理屈では説明しきれないことが多いからだろう。怪虫の襲撃は覚えていたが、ナイフのエピソードは忘れていた。
 ナイフ。小学生にもたせるには危ないと、今の大人は思う。だがナイフで指を怪我することは、取り返しのつかない怪我でないのなら、決して悪いことではない。それは痛みを知ることであり、武器としてナイフを使うことの心の痛みを知ることなのだから。
 「漂流教室」のお母さんも、息子がナイフを持つことをいやがっていた。しかしこのナイフが、奇想天外な形で主人公を救うのだ。私はこのエピソードを読んで、涙が止まらなかった。
 コレラとミイラのエピソードも凄まじい。凄まじすぎて、こんな物語が本当に描かれたのが信じられないほどだ。だから記憶に残らなかったのだろう。
 それにしても「漂流教室」は、母と息子の時空を越えた愛の物語であった。
 愛の物語を、楳図かずおはいくつも描いている。それも凄まじい愛の物語を。
 「わたしは真悟」は壮大な愛の奇跡を描いた作品で、さとるとまりんというふたりの小学生の愛を伝えるメッセンジャーの物語だった。奇跡は誰にでも一度は起こる。しかし奇跡が起きたことには、誰も気付かない。
 「イアラ」は時空を越えた愛の物語で、やはりこの凄まじさは説明不能だ。実物を読まなければ理解することはできない。「14歳」も結局は愛の物語であることが明かされるのだが、そこに至る過程を知らなければまるで理解できないだろう。
 こんな凄まじい愛の物語を描く楳図かずおに特殊な趣味があるってのは、どうにも信じがたいが信じられるような気もする。この人に理屈は通じないと思うからだ。
 それはそうと、仕事。例によって残業。
 新人くんが残っていたので、一緒に夕食を食べに行く。
 仕事のことなどだらだら話したのだが……いくらなんでも先輩に食事をおごるってのは、失礼じゃなかろうか。むしろ私がおごるべき場面であって、財布を出そうとする私を押しのけ、差し出した金を拒絶するというのは、人の顔を潰すことだ。
 おそらく礼儀正しいことであると信じているのだろうが……いや、俺の知ったころじゃねえか。新人くんの歪みは、これだけじゃないのだ。仕事さえしっかりやってくれれば、人間として大切な知恵がなかろうがなんだろうがかまやしない。
 仕事さえちゃんとやってくれれば。


2002年1月19日

 文京プライベに行く。
 例によってみにまむさんの滑舌が冴える。文京プライベはエルスウェア様、AIS、そしてとある同人メイルゲームをサポートするとのこと。
 エルスウェア様の次回作「特命転攻生」もサポートするということなので、杉本さんと私は次回作の予習を行うことにする。つまり公開講座2002に備えてクシュカ語検定の準備。

 Saugha_nn u_i skeadan
  ve 'er du_n yad hoslan.

 「Saugha_nnは鉄、雅語では剣を使うことを示し、-a_nnはそれを使う者という意味の接尾語ですね」
 「では鉄の男とか剣を使う者……剣者とでも訳しましょうか。skeadanはskeadinの三人称過去かなあ。刻みつけたとか、刻印した」
 「u_iに相当する単語がないんですよ。たぶんこれがこの問題のポイントだと思うんですけど」
 「飛ばして分かるところを調べて、推測することにしましょう。ve 'erは、並びに彼は、かな」
 もちろん実際には、このようにすらすらと進んだわけではない。語彙集をめくり、活用表をひっくり返し、ゆっくりとゆっくりと進んだ。
 これが第一問だったので、ついついこれから取りかかってしまったのだが、なかなか解けないので帝都アシュナの美称を訳すことにした。こちらは数単語なので、肩慣らしにはこちらからかかるべきであった。
 気がつくと、ひとつも満足に訳せていないというのに閉会15分前になっていた。
 「次回のアクション、どうしましょう」
 「しまった。あまりにおもしろくて、そんなこと忘れていた」
 「なんか今回、やたらアイテムが増えてんですよ」
 「こちらも回復ウォーターLv2が四つもあります。パーティレベルの回復を4回もできます。マスターが我々に何を期待しているか、よく分かります」
 「なるほど……ならば、もはや特攻しかあるまい!」
 「もはやって、毎回特攻じゃないですか」
 「何いうんですか。特攻してるのはとんぬらサマルトリアであって、アンシャーリー・エンゼルダストは特攻させているだけです。これでギャラはおんなじ。次回はいつもより多めに特攻しております」
 結局、次回もここあサマルトリアが特攻ということになった。白面の能力はマハマンのようなもの、ということで、魔物をテレポートさせて鼠は壁の中にいるのだ。


2002年1月20日

 妹に「漂流教室」を読ませる。
 「おもしろかったろう。お母さん、美人だし」
 「美人って……楳図かずおの絵だし」
 ああ、妹よ。お前はそんなことだから嫁のもらい手がいないのだ。あのお母さんを美人と感じる妄想力、それが人の欠点を許容することにつながるのだというのに。
 「漂流教室」は圧倒的におもしろい物語だ。この物語にあって狂気ともいえるほどの行動力を示し、子供への愛を実践するお母さんが美しくなくて、いったい何が美しいというのか。
 俗世のオタクは妄想力を断片しか身につけておらず、そのため不完全な妄想力である「萌え」あるいは「燃え」がすべてであると思い込んでいる。しかしそれでは「も」しか実践できていない。妄想、これを完全に実践できたときこそ、オタクは真の力に目覚めるのだ。いうなれば妄想こそ究極のセブンセンシズなのだ。

 ……というのは私の妄想なのだが、ともかく「漂流教室」がおもしろいというのは事実だ。
 先日の文京プライベでTRPG「特命転攻生」のコンベンションの実施が決定された。ということで、マスターをする予定だ。
 神子さんは必ず出席するように。これは決定事項である。
 それにしてもTRPGのマスターなんて、何年ぶりだろう。少なくとも3年はやっていないはずだ。最後にやったのはPARANOIAであったか。PARANOIAは完璧なゲームなので誰がマスタリングしても完璧におもしろくなるのだが、「特命転攻生」はどうであろうか。
 「市民、エルスウェア様は完璧です。市民の発言はエルスウェア様への反逆と見なされますぞ!」
 「イワーン!」
 「……はっ。失礼いたしました。私ごときが意見いたすなど」
 神子さんが参加するとなると(本人の意志は無視して確定事項)許容人数はあと3〜4名程度。できれば少人数にして丁寧にフォローしたいところだ。
 さて、どんなシナリオにするかな。燃え上がれ我が妄想、黄金聖闘士の位まで。


2002年1月21日

 山田正紀『チョウたちの時間』ハードカバー版を読む。最近復刊されたのだが、残念なことにイラストがダメダメなのだ。ハードカバー版はイラストがなくて素晴らしい。
 これに出てくる天の甜酒(あまのたむざけ)という日本酒が実に美味そうで、読んでいると美味い日本酒を呑みたくなってくる。残念なことに、しばらく買いに行く暇もないんだよなあ。次の休みには必ず何か買って来よう。
 疲れて帰宅して、年末に買ったまま忘れていたかぼす酎を呑みながら柳川房彦『星の、バベル(上)』を途中まで読む。
 すげえ。呆れるほどおもしろい。ビバ柳川。
 人類の抱える現代的問題のすべてが人口に起因するのだとすれば、知的生命体としての人間が抱えるすべての問題は言語に起因する。そして言語の果てには神がいますのだ。山田正紀の言語作品はメタ言語ばかりを扱っており、それはそれで魅力的なのだが、柳川房彦作品では実在の言語を扱い、あるいは実在の言語をモデルにした架空言語を扱う。
 思弁性が強くアクションが少ない気がするが、私はこのような作品を愛する。早く下巻を読みたいところだ。
 もっとも私としては、「特命転攻生」での公開講座2002の準備も怠って欲しくないし、複雑な気持ちだ。


2002年1月22日

 昨日の日記、間違い。
 『星の、バベル』は柳川房彦名義じゃなく、新城カズマ名義。
 でまあ、上巻読了。読み終えてそのまま、再読。おもしろいわ、これ。素晴らしい。ピジン、クレオール、英語、関西弁の日本語を混用しての会話で、言語の持つ多様性を示している。山田正紀作品では言語について言及しながら、言語そのものを扱うことはしていない。『星の、バベル』では、地球というちっぽけな惑星に溢れる言語の多様性をしっかりと記述している。
 絶滅危機言語、という単語を知っているだろうか。使い手がわずかであるために、その数名(ときには、一人)が死んでしまえば、永遠に失われてしまう言語だ。
 言語には、それがどんな言語であったとしても、固有のニュアンスがある。日本語でしか表現できないことがある。英語でもっともよく表現できることがある。クシュカ語により喚起されるイメージを、別の言語へと完全に移し替えることはできない。
 私自身は日本語を辛うじて操ることができるだけだが、それでも言語は多様であって欲しいと思う。フリーマン・ダイソンのことばを借りるなら、神は多様性を好みたもうから。多様なるものは、美しい。少しばかりややっこしくて、面倒ではあるけれど。
 ところで舟のパズルに言及されているのは、こうゆうことだろう。つまり、常に最善の組み合わせをすることが最良の結果をもたらすとは限らない。
 舟のパズルはこんなものだ。有名なものだから知っている人も多いだろう。島がふたつある。舟が四艘ある。舟は二艘をつなげて動かすことができるが、遅い舟の速度しか出せない。Aは片道1時間、Bは2時間、Cは4時間、Dは5時間かかる。そしてすべての舟を、12時間で向こうの島に移さなければならない。
 意図的に最悪のものを組み合わせることで、この問題は解くことができる。それに気付かなければ、決して解くことはできない。
 さて。
 山田正紀に言及したが、『星の、バベル』はわざとやっているのではないかと思ってしまうほど山田正紀と似通った素材を使用している。
 言語。
 神話。
 Imaginary Star。
 カントール。
 大脳。
 ジャンク遺伝子。
 ウィルス進化論。
 フランケンシュタイン。
 思いつくままに抜き出してみたのだが、Imaginary Starとフランケンシュタインは『エイダ』で、カントールは『デッド・エンド』、ジャンク遺伝子の活性化は『最後の敵』だ。そして絶滅危機言語の完全な辞書/文法書の作成は……『ジャグラー』と『幻象機械』ではないか。私の好きなものが、全力で詰め込まれている。
 ああ、早く続きを読みたい。


2002年1月23日

 気に入っていた店が昼時の営業を停止してしまった。戦況が悪化したからなあ。
 やはり狂牛病の影響だろうか。いつ行っても空いていて、気に入っていたんだが。
 しょんぼりして「プレジデント」を立ち読み。的はずれな意見がいくつもあるが、見るべき意見もある。
 的はずれな意見はパラサイト・シングルのもたらす経済的悪影響に関するものであった。私を顧みれば、パラサイト・シングルとレッテルを貼られてもおかしくない状態にある。パラサイト・シングルとは生活基盤を親にまかなってもらいつつ生活している独身者を示すことばで、寄生する独身者というとおり、収入がなく完全に親に依存する人から、収入はありながら独身のまま実家に留まるものまでを指す。
 自分とは自分と自分を取り巻く環境の総体であり、人は自分が理解したいと思わないものを理解したいとは思わない。私のことを理解したいと思わない人が私を取り巻く環境を見て私をパラサイト・シングルと呼ぶのなら、私はパラサイト・シングルなのだろう。恰好悪いので、反論はしない。
 恰好悪いから反論しない、信念あるゆえに反論できないことというのはいくらでもある。理解しようとしない人のために、口にするのもためらわれるほど大切なことを開示する必要があるとは思わない。そんなもったいないことはできない。ことばにすることで壊れてしまうことだってあるのだ。
 まあそれはそれとして。
 パラサイト・シングルが経済に悪影響を与えることを論証しようとしていたのだが、たしかにパラサイト・シングルが増えれば経済は鈍化するだろう。しかし経済鈍化を恐れてパラサイト・シングルをやめる人が、どれほどいるだろう。それを続けることは、経済的には有利なのだ。ミクロ経済学とマクロ経済学を混同しているから、こんなヘンな意見になる。
 それくらいなら岡田斗司夫のように『30独身女は正しい』と断言した方が清々しい。個人の幸福を追求するなら、現代日本というヘンテコな状況にあっては、独身であった方が有利なのだ。ちょっとばかり寂しいのさえ我慢できるなら。
 「プレジデント」の記事で素晴らしいと思ったのは、部下のことばが分からない上司についてであった。部下が〆切間際になって原稿ができないといってきた、という事例を紹介していた。この記事を書いた人は、上司が悪いと断じた。〆切間際になり、取り返しがつかない直前になるまで部下が相談できないような状況を作った上司が悪い、というのだ。ふだんからコミュニケーションをしっかりとって、相談しやすいようにしていれば、こうはならなかったろう。
 こうもあった。
 部下は否定から入る上司を信用しない。肯定から入り、改善点を示す上司を信用する。この記事を書いた人は、自分を育ててくれた上司について書いていた。その上司は、ただ原稿を突き返したという。ただ突き返し、その代わりいつまでも付き合って残業してくれたという。
 メイルゲームでも、これは応用できる。アクションを突き返せというのではなく、グランドマスターとマスターの関係についてだ。実際にこんなことをしたら、遅刻だらけで取り返しがつかないことになってしまうだろうけれど、気軽に相談できるようにしておくことは大切だろう。
 ええ、大切なんですよ。俺、相談しようとすると上司が「いま忙しいんだ、あとにしてくれ」といわれ続けてるもんなあ。
 まあ仕事の愚痴はともかく。
 メイルゲームのことと肯定から入る、ということで、ふとみやかわさんを思い出した。みやかわさん、かなりの割合で提案に対して肯定から入り、それを実現するにはどうしたらよいか、と論を進める。
 私も見習おう。


2002年1月24日

 意味もなく小花美穂「こどものおもちゃ」を読み続ける。
 ふうむ、これが羽山秋人か。一度、ペギー羽山と呼ばれていたので、大阪にてプレイした「トーキョーN◎VA」を思い出した。日本鎖国→ペリー→ペギー羽山→アルツ葉山、という連想で命名したキャラクターをプレイしたのだ。
 聴いたところによるとこの少年、アニメ版では衝撃のアルベルトと同じ技を使ったそうだ。論旨不明に恰好いいなあ。
 「プレジデント」に、美味い食事を採ることは免疫力を高める、と書いてあった。別の雑誌でも読んだ記憶がある。免疫力といえば、今や平和と同じくらい重要な戦略物資だ。ということで、美味いもんを喰らって過ごすことにする。
 本日の昼食、印度料理。おかわり自由のナンをがつがつ喰う。
 仕事、謎のトラブルをようやく解決する。
 俺は、データベースソフトが使えねえんだ! 図面も引けなけりゃ、営業もできねえ。はっきりいって一人じゃ仕事ができねえ自信がある。
 「ずいぶん情けねえじゃないか。なら、お前は何ができる」
 「俺は、メイルゲームができる」
 ということで、メイルゲームを続けられるのも職場のみなさんのお陰だと、こっそり感謝の電波をピピピッと送る。
 ともあれ懸念事項の峠を越えたので、安心して帰宅しようとする。このところ仕事に波がありすぎるので、明日はどうなっているのかさっぱり分からなくておもしろい。
 バランスがとれてしまった。
 電車、事故により停止。仕方がないので回り道をして帰る。なんてこった。


2002年1月25日

 職場近くの書店に行くと、どうしたわけだか鈴木直人『チョコレートナイト』が4冊も積んであった。私が注文した影響だろうが……売れねえぞ、これ。
 この書店に関しては、私は店長よりも客層を把握している自信があるのだ。錯覚だが。何しろ浅羽通明『野望としての教養』がいつまでも売れ残っているような書店だ。あるとき見知らぬ客と会話する機会があり、専門用語を交えて説明をはじめたのでその装置はいかなる目的で使用するものか、と訊ねたところ、
 「論文やレポートを作成するために使う」
 という頓狂な回答が返ってきた。そりゃ確かに目的ではあるけどさあ。こんなものだから客層の知識レベルも知れたもの。鈴木直人『チョコレートナイト』が売れるものか。
 脈絡なくスティーブン・キング『ミザリー』読了。
 なるほど、ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』が想定しているのはこのような世界か。SFばかりを読んでいる私には作中作『ミザリー』シリーズは退屈な物語だし、ポール・シェルダンの文学作品も読む気になれないものだが、アメリカではこのような作品が売れているらしい。
 ちなみに『ミザリー』は確かに傑作であり、小説を書こうという者なら『ベストセラー小説の書き方』とともに読んでおいた方がよい作品だ。
 もっともリアクション作成には間接的にしか役立たない。リアクションには小説とは別の方法論が必要になる。なにしろ登場人物の数がまるっきり違う。リアクションはゲームの文章化であり、小説はプレイヤーに限定されない不特定多数に対して書かれる。
 勘違いしないようにしないと、足をすくわれる。他の人がどうか知らないが、私にはその危険がある。


2002年1月26日

 仕事に行く。
 終わらねえんだ。
 『山本弘のハマリもの』読了。マッドテープについて言及されている。
 マッドテープは十数年前にオタク界を席巻した合成テープで、著作権上問題があることもあって近頃では話題になることも少ないが、初めて聴いたときには脳みそが沸騰するかと思うほど笑い転げた。
 たとえば、私の周囲でヤマト篇と呼ばれたテープはこんな内容だった。いくつものアニメ特撮ソングを合成し、こんな歌詞にしているのだ。

 風が吹く、見よ「ヤマトだ」
 嵐があれる、力よ「ヤマトだ」
 世界は征服、偉大な「ヤマトだ」
 怪人あやつる恐怖だ「ヤマトだ」
 邪魔な相手は許さんぞ、出撃それゆけ怪人軍
 人呼んで悪魔の「ヤマトだ」
 地獄の底から甦る悪魔の化身「ヤマト」
 来るなら来て見ろ「ヤマト」
 地獄のケダモノ、「宇宙戦艦ヤマト」

 あるいはこうだ。台詞を継ぎ接ぎしてヘンテコな内容にする。デスラーがいきなり「ヤマトの諸君、私は子供が嫌いだ!」と叫び出すのだ。
 そんなことを考えながら歩いていたら、デスラーっぽい顔の人を発見。あんな人、実在するんだ。へえ。
 日本酒を呑みたくて仕方がない気分になったので、岩手のあさ開大吟醸を購入。
 blackdogさんにいただいた日本誉にそっくりの味。芳醇で、旨い。気がつくと一本呑んでしまっていた。720ml瓶なんだが。


2002年1月27日

 今日も仕事。
 休日返上で働き続けたので、なんとか楽になった。まあ、こうやって強引につじつまを合わせ続けるのは、今だからできることだろう。そのうち、破綻する。早いところ逃げ道を作っておいた方が、よさそうだなあ。
 田中啓文『UMAハンター馬子』1巻読了。
 芸人馬子の弟子だからイルカで、イルカは可愛い女の子ということらしいのだが、私にとってイルカといえばエルスウェア様の坂東真紅郎(幼名いるか)なのだ。馬子が典型的な大阪のおばはんとして描かれているので、そのイメージに引きずられてイルカの恰幅も無駄によくなる(私の頭の中で)。
 まあそんなことより、どうして馬子が八百比丘尼になってしまったのかということを明かす方が先なんだが。これは文章より明白だが、どこまで引っ張るのだろう。
 またギャグミステリとされているが、駄洒落とギャグは違うのではなかろうか。
 でも好き。もっと汚らしく、えげつない文章を書き散らしていただきたいものだ。
 今日は土佐の酔鯨。芳醇さではあさ開の方が上。でもこれはこれで旨い。明日は寝坊できないので、ほどほどで切り上げる。
 呑まないでやってられっか。


2002年1月28日

 プロレスラーふたりがメイルゲームについて語り合う、というわけの分からない夢を観る。どうしたわけだがひとりはチクラドリア人のようにピンクの髪の毛をしていた。
 あまりのことに屋根を登り続けると、GURPSが隠してあるのを発見。宝の山に狂喜して屋根を引っぺがす。
 なんでこんな夢を観たんだか、さっぱり分からない。
 深夜に目が覚めてしまったので、意味もなく「はじめちゃんが一番」を読み返す。

 バイトさんに新しい仕事を教える。
 午後いっぱいかけて、頼んだ分をしあげてくれた。
 「ありがとう。それでは明日から、この引き出しにある分にかかって欲しい」
 と、山ほどの書類を示す。しばし、呆然としていた。今の作業速度でやったら、3ヶ月はかかろうってほどもあるものなあ。


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