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プレイヤー氏名 石井文弘
会員番号 K11068
キャラクター氏名 古川春陽(ふるかわ・はるひ)
キャラクター番号 102148
年齢 17歳
性別 男
学年 220 高等部2年
物語類型 主 10 幼い後継者
従 12 導く賢者
特徴 外見 スリム
性格 華奢
マイナス 筋力がない
その他 記憶力が良い
その他 成績がよい
その他 仏教一般に親しむ
参加団体 1.政治研究会
2.法律研究会
3.言語研究会
4.腹心の友
口調 一人称 ぼく
二人称 貴方、〜さん
語尾 ですます調
時念度 0
行動選択肢 40001 公開講座を聴きにいく
今月読んだ本
日常アクション
少し不思議な学園生活を堪能する
行動
公開講座2000への報告の提出について
行動補足
標記の件について別紙のとおり報告いたしますので、よろしくお取り計らい願います。
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■エンガチョ
まず、蒐集した事例の報告から。
☆ ☆ ☆
1)二十数年前の滋賀県では、「エンガチョ」+「縁切った」両手での交差チョキでした。幼稚園のころはバリアの記憶はありませんが、ある程度大きくなると(小学へ上がってしばらく)「バリア」が始まりました。特撮かロボットアニメみたいなこと言っていると感じたのを覚えています。
2)
性別:男性
生年:1972年
地域:埼玉県鶴ヶ島市/坂戸市(埼玉中央部)
時期:幼稚園〜小学校中学年
単語:バリア
指:数種類ありましたが、たいていの場合、両手でそれをやらないと成立しなかったように思います。
1,人差し指と中指をクロスさせる。
2,拳を握り、親指を人差し指と中指の間から突き出す。突き出ている長さが長いほど、バリア能力が高い。(この形の本当の意味を知るのは、ずっと後でした……。いやあ、知らないって凄いなあ)
ただどちらの例でも、相手が強硬策に出てバリアをしている奴にくっつける(例えば「XX菌」とか)ことが多かったので、最終的には無意味になっていました。……それでもバリアはやり続けましたけどね。
「まずバリアを表明することで、それを一方的に破った相手が悪い」という社会的合意を取り付けていたのかもしれません。
喧嘩の仲裁をする先生は大変だったでしょうね。
「だって俺はバリア張ってたのに、XX君が手で付けるんだよ。卑怯じゃん。」
「バリア張ってるんなら、ぼくがどこに付けたって関係ないじゃん。なんで怒るんだよ。」
「バリア張ってたら付けちゃいけないに決まってるだろうが。なんでやるんだよ。」
「……」(先生)
……不毛な口げんかだったなあ(しみじみ)。
3)
性別:男
生年:1972年
地域:高知県高知市
時期:1980年頃
単語:ビビ。防御する時はバリアーと言った記憶があります。
指:利き手の人差し指を軸にし、中指をクロスさせる
備考:曖昧なのですが、防御時もしくは感染時のいずれかに「ビビ切った」というフレーズを使う記憶があります。
この場合、汚い物=ビビ、その感染・それからの防御=ビビ切った(縁を切る)と言う分類になるのですが、この辺りはハッキリと覚えていませんので、知人などに問い合わせてみます。
ふと思ったのですが、「バリアー」と言うフレーズは、もちろん私の世代においてはスーパーロボットアニメの影響が強いものと思われますが、印度の賤民階級「バーリア」にも通じる物があるのではないかと、トンデモな連想を致しました。これは子供における偉人伝の周知率の意外な高さとその影響力の高さを表しているのかもしれませんし、なんらかの言語学的・文化的底流による物なのかもしれません。
4)
性別:女性(小学校時の遊び仲間&遊技の種類は男子寄り)
生年:1973年
地域:山口県下関(小学〜高校)
*山口は東西で言葉と文化が結構違います。静岡ほどではありませんが。
時期:小学校のとき
単語:
・バリア(自分に対して。ただし、「この指とまれ」の締め切り合図でも使用。「疎外」の意では共通か)
・〜(名前)菌
指:人差し指に中指を絡める。
山口(柳井、宇部、下関)→(北九州)→福岡→静岡→東京→神奈川 と移動してますが、「えんがちょ」という言葉は山口にいた頃、公共電波か書籍で知りました。(アラレちゃんだったかなぁ??)
東側にきて、初めて実際に口にする人を見た次第です。
5)
性別:男性
生年:西暦1963
地域:愛知県
時期:「小学校のとき」
単語:「バリア」「エンガチョ」等。
指:ポーズについての記憶はない。そもそも新興住宅地ができ、東西から転校生があふれた時期。方言も各地入り交じり、どれがそもそも地の言葉・風習なのか不明。
6)
性別:男
生年:1973 年
地域:横浜市
時期:小学校低学年
単語:エンガチョ切った
指:人差し指と中指を重ねる
7)
性別:男
生年:1971 年
地域:福岡県宗像市
時期:小学校時代
単語:やんぴー
指:人差し指と中指を重ねる
8)
性別:男
生年:1977 年
地域:千葉県柏市
時期:小学校時代
単語:バリアー
指:人差し指と中指を重ねる
6〜8報告者よりの備考
「その1:対象となるモノ」
小学校高学年になると、汚い物に触れた人間に対する攻撃より、個人に対する攻撃に移っていた気がします。
「(個人名)菌」という呼称が私の記憶に残っていますが、これは「汚い物」を対象とするのではなく「汚い者」を対象としていますよね。
#こうなると既にいじめ?
「その2:禁止用語」
#実はただの「徒然なる怒りの声」です。
博多山口付近では「ぎっちょ」という言葉を使用していたそうで、これは「片端(障害者)」を指す差別語として放送禁止扱いになっています。
しかし用途からして「エンガチョ」も「ギッチョ」も、おそらく同列の言葉で、なんかヤバイものを阻害(排除?)するための用語ではなかったのだろうか?それが「エンガチョ」は良くて「ギッチョ」は不可になったのではないか。ってな話から、一つは地方語(地方文化)に対する中央政権の政策に話は進展しました。
民俗学で必ず問題になるのが中央政権による「臭い物消滅政策」。彼らが「日本は単一民族国家じゃない」って「事実」を徹底的に拒否した結果が、歴史的事実の消去です。
慣習を奪い、言葉を奪い、記録を書き換え、血を絶やす。後世に残るのは細々と生き残ってきたヒントだけ。あー、もう腹が立つ。
差別用語もしかり。
「言葉を消せば概念も消えて差別が無くなる」
放送禁止用語の考え方はそこにあるのでしょうが、学ばなければ同じ所をぐるぐる回るだけ。だから「知らないが故に罪の意識もない差別」が生まれる。あー、もう腹が立つ。と、いうわけで、大変だとは思いますが「エンガチョ考」頑張って下さい。
まとまらず。
9)
性別:男
生年:58歳
地域:東京都多摩西部
時期:
単語:なし
指:
備考:50年前にはなかった(自分の子供たちがそうゆうものをしていたのは知っている)。テレビで、確か漫才ブームのころのツービートなどが「エンガチョ」といっていた気がするが、当時は意味が分からなかった。
10)
性別:男
生年:1976年
地域:幼少〜中学時代、奈良県奈良市
時期:小学生時代
単語:バリアー
指 :人差し指と中指を両手ともに交差させ、相手に突き出す。
☆ ☆ ☆
地図作製は間に合わなかったのですが、これまでのデータを加工して表を作成しています。みなさんにも利用していただけるように、友人のWebページに置かせてもらうことにしましたので、urlを記しておきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~is6f-isi/pbm/kurou/index.html
「野望の王国」というWebページのトップから「狗狼伝承〜放課後の旅人たち〜」情報のページに飛べばいいようになっています。url打ち込みが面倒でしたらインフォシークやgooなどの検索サイトで「野望の王国」を検索してください。ほぼ間違いなく見つかるはずです。
ここの管理人さんは怖い人だと思われているようなのですが、そして事実なにをやらかすか分からない人なのですが、いきなり噛みついたりするようなことはありませんのでご安心ください。お世辞にも恰好いい素敵青年です。
データはエクセル97で加工していますが、確か幡先生のパソコンはiMACだったはずですし、エクセル以外の表計算ソフトを使用している方もいるでしょうから、エクセル形式とCSV形式の二種類を用意します。
本当はこのようなことはデータベースソフトでやった方がいいのかもしれませんが、そうするとますますOSによってデータの互換性がなくなってしまいます。少数派アプリケーションのユーザ、少数派OSのユーザをエンガチョにしたくはありませんし、そもそもデータとは活用されてこそ意味があるものではないでしょうか。
幡先生の蒐集した事例が「散歩男爵」にあるとのことでしたので、これも組み込ませていただきました。そのことに問題はないと思いますが、加工したデータを別のページで公表することにはもしかしたら何か支障があるかもしれませんので、その場合はご指摘いただければ幸いです。
また、これまでの公開講座のノートについて、「野望の王国」管理人さんに配布を依頼しています。万が一欠席するようなことがあっても、彼に頼めばすぐにコピーなどを送ってもらえるようになっています。住所公開レベル1のすることじゃないという意見もあるでしょうけれど、これは他の事件を追っている人とは積極的に関わることはないという意味でのレベル1なのです。問題はありません。
「地域1」は大まかな地域名を示します。関東とか山陰などです。「地域2」は都道府県名です。「地域3」はそれ以上に詳しい地域名を示します。年齢は報告者の年齢があるならばそれを示します。時期は学齢など使用していた時期です。年代は時期と重なりますが、時間軸についてこの三つが入り混じっているので分離しました。最終的にはそれぞれを計算して埋めていく予定です。使用する単語は三つにまとめられますので、報告の順に入れていきました。初出は、データがどこにあったのか示すもので、RA10001は第一回の講座であるという意味です。
それにしても集められたデータを表計算ソフトに入れ直すという、ただそれだけの作業なのに、データを適合するように加工しなければならないことが多いのには驚きました。元のデータが損なわれないよう注意したつもりですが、もしかしたら重要な部分を削ってしまっているなどということがあるかもしれません。そのようなことがありましたら、ご教授いただければ幸いです。
同時に、これだけの作業にも情報の取捨選択が存在するということを思い知って、前回に幡先生がおっしゃっていたことが分かったような気がしました。
「バリアー」の語については、友人によると、やはり元となっているのはウルトラマンだろうとのことです。
ウルトラマンが1966年の作品です。ただしこれは何度も再放送されていますし、続編がいくつも作られていますから、具体的にいつのどの作品であるかは特定しにくいのではないかと思います。再放送についての日程、話数、放送地域などについてのデータを揃えればいいのでしょうが、手に余ります。
ちなみに、前に話題にして論じる価値はないといわれてしまいましたが、エヴァンゲリオンのATフィールドはウルトラバリアーを明確に意識したそうです。最近のバリアーというと、どうしてもこれになってしまうのです。勘弁してください。それに放映当時、主人公と同年齢であったため、中盤まではかなり共感して視ておりました(確かに映画版はしょんぼりしましたけれど)。
庵野監督は怪獣が津波を起こすところを実演して、その津波をウルトラバリアー(B型)で防ぐ、というイメージで作画するように、と指示したと、岡田斗司夫が報告しておりました。
さらに前の作品としては1963年の「エイトマン」があるとのことです。友人もアニメ版は視ていないとのことですが、マンガ版では天才少年がエイトマンと戦う際に、個人用バリアーを使用してエイトマンを苦しめたそうです。攻撃できずに困るエイトマンの前で天才少年は急に苦しみだし、結局はエイトマンが勝つことになるのですが、理由はバリアーが何も通さないために酸欠になったのだそうです。本当に天才少年のすることなのかさっぱり分かりませんが、どうやら当時としては画期的な科学性……というかSF性だったとのことです。たぶんこの少年が再話されると、テム・レイになるのでしょう。
他に印象的にバリアーというと「マジンガーZ」の光子力研究所でしょう。何しろ割れますから。ただしこれは建物を保護するものですから、個人用のバリアーとして応用されるかという点には疑問が残ります。
もうひとつは「氷河戦士ガイスラッガー」ソロン号のバリアーで、レーザー用とミサイル用の二種類がありました。インベムも律儀にどちらかだけで攻撃してくるのですが、張り替えに時間がかかるため間に合わなくて被弾してしまう、というパターンが繰り返されていたということです。
それ以前の作品、たとえばパルプSFなどにもバリアーは登場したはずなのですが、友人の記憶では、それはバリアーという名称では呼ばれていなかったようです。力場とかなんとか、訳語がつけられていたようです。このあたり、いつごろから外来語を翻訳せずカタカナ表記で通用させるようになったのかという研究を行うとおもしろいことが分かるかもしれません。
「果物/性的象徴/穢れたものの分離」の神話といえば、もっとも有名なのはイザナギの黄泉平坂下りでしょう。
ヒノカグツチを産んだ際に火傷をして死んだイザナミを追い、イザナギは黄泉へと向かいます。しかしイザナミはすでに黄泉戸喫をしてしまっており、腐り果てた姿すなわち穢れた姿になっています。この姿を見られたことでイザナミは怒り狂い、黄泉醜女や八雷神、そして自分自身でイザナギを負うのですが、追いつかれそうになるたびに何かを投げます。それは山葡萄や筍に変じ、追う者を足止めします。最後にイザナギは三個の桃を投げることで難を逃れます。その後、イザナギとイザナミは呪のかけあいをして、イザナミは一日に千人を殺すこととなり、イザナギは千五百人を産むことになりました。
ここで問題となるのが、本来は生殖を司るはずの母神イザナミが死を司り、その対称性でいうならば死を司るはずの父神イザナギが生殖を司ることになってしまった、ということです。生が死を孕み、死が生を内包してしまっています。神話が宇宙の構造を示しているのだとすれば、これは非常に危険なことです。このことについて昭和末期に日本全土を巻き込んだ事件が発生したのですが、残念ながら当時の資料は散逸し、関係者の多くもまた断片的にしか事実を把握していないため、正確なことが語られることは少ないようです。
この事件は1999年に再話されそうになったのですが、73人の先見性ある人々が事前に手を打ったため、惨事には至らなかったとのことです。その一端については、先に紹介した「野望の王国」にて(ハルマゲドン・エクスプローラーというフィクションの形を取って)報告されています。
ぼくはこの昭和末期の事件の報告により、神話の再話/繰り込みという構造を知りました。山田正紀『デッド・エンド』にも同様の指摘があるのですが、神話は過去にあった出来事を語りながら、それは現在/未来にも通用する構造を持っています。すべての事件は神話の中に繰り込まれ、またすべての事件は神話の再話なのです。ぼくが神話学に魅力を感じるのは、まさにこの部分です。
また、ものを三度投げることで逃走に成功するというのはいくつもの神話で語られていることです。諸星大二郎「マッドメン」でも、この構造を利用することで神話的逃走に成功する、というエピソードがありました。構造により結果が生じる、という点も、神話学に興味を惹かれた理由です。
『時の果てのフェブラリー』にある「メタ・チョムスキー言語」という概念は、あくまでもSFとしての創作だそうです。これは友人の、さらに友人が山本弘氏に質問状を送って確認したことだそうです。言語学ではチョムスキーの名が知られているため、その権威を借りた造語……というのが、ぼくの聞いた説明でした。
念のため山本弘本人に確認を取ろうと思ったのですが、まだメールアドレスを調査している段階です。
ただし山本弘の発言内容に問題があるというのは事実です。創作物がすなわち作者の信念ではありませんが、繰り返し語られる内容は作者の意見である可能性が高く、作品を離れたところで同様のことを語っているのならばそれは作者の信念であると見なしても問題はないと思います。
「モンスターたちの狂想曲」を代表として、いくつもの作品で山本弘は、生まれつきなどというものは存在しない、と語っています。性格は後天的に決定される、というのです。そのために彼は血液型人間学を否定しているのだそうです。ぼくは科学的な信頼性に欠けるために血液型人間学を否定しているのだと思っていたのですが、性格が後天的に決定されるという信念ゆえのことだというのには驚きました。
性格が先天的なものであるか後天的なものであるかは、たとえば東京大学附属の一卵性双生児学校などに見られるように、現在でも完全には解明できていない問題です。それを後天的なものであると固定観念を持ち、確かに感動的な内容であるとはいえ作品で繰り返し主張し、先天的な性格が存在するという可能性を切り捨てるというのは、科学的な態度とは思えません。それは人間の心を白紙であると主張しつづけ、1ダースの赤ん坊がいるならば自分の思うとおりに成長させてみせると言い放った学者の傲慢を思わせます。
どうやら山本弘は、このようなエピソードを知らないようです。困ったものです。
■クシュカ帝国
双生児について、上記エンガチョに関する報告を書いていて書き忘れたことがあることに気付きました。
東京大学では一卵性双生児ばかりを集めた附属学校を設け、環境と遺伝とではどのように性格に影響を及ぼすか、という研究をしているそうです。この学校には双子しかいないため、先生方は非常に苦労するとのことです。何しろ同じ顔をした人がもう一人ずついるのですから。
ただこのような環境ですと、双子が双子であるという特殊性をあまり意識せずにすむのかもしれません。芸能人が堀越学園に通うのは、学力だけの問題ではなく、芸能人であるという特殊性を意識せずにすみ、また学校側が対処に慣れているということもあるのだそうです。
「パーンドゥシュ武勲詩」要約の文体は、平成初期に広く知られるようになったミハイル・ヴラディミーロヴィチ・イマーノフの幻想小説「ミイル・イリュージヤイ」の要約にそっくりです。ミハイル・V・イマーノフは亡命ロシア人で、『軍師回想譚』の発見者もまたロシア人考古学者であるとのこと。ただの偶然であるとは思えません。
真偽は疑わしいのですが、「ミイル・イリュージヤイ」の要約は「つくられたものがつくったものを超える」と作者が評したように、いくつもの幻想的状況を呼び起こしたとのことです。もしもイスキュア断章がさらに発見されたならば、近ごろは不可思議な事件が多く起こっているということですし、それらに影響を与えることもあるかもしれませんね。そしてそれは十年前の事件の再話という性質を帯びるのではないでしょうか。
「我々のみている現実世界自体がすでに『繰り返されたパーンドゥシュ叙事詩』なのではないか」という主張があるとのことですが、ロマンティックな表現をするならば、すでにぼくたちは神話の中に生きているのではないでしょうか。
といいますのも、やはりこれもエンガチョ研究の中に書きましたが、神話は過去の出来事を語りながらも、それは未来の出来事に通じる構造を持っているからです。
また山田正紀『エイダ』には、メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』がひとつの神話として扱われます。ご存知のように『フランケンシュタイン』は、船医が姉に宛てた手紙、という形式を採ります。その中でヴィクター・フランケンシュタインは自らの所行──怪物の創造を語ります。フランケンシュタインはさらに、再会した怪物の回想を語ります。そして回想は、奇妙な一家の歴史を含みます。怪物はこんなこともいっていました。『若きウェルテルの悩み』を、自分は単なる物語ではなく、一人の人間が実在したものとして読んだ、と。怪物自身のことばによって、物語はただの物語であることから解き放たれるのです。
もう一度整理し直します。
1.現実
2.小説『フランケンシュタイン」
3.船医の姉への手紙
4.ヴィクター・フランケンシュタインの回想
5.怪物の回想
6.奇妙な一家の物語
6.『若きウェルテルの悩み』
『フランケンシュタイン』は、このように六つの階層からなります。
さて、『エイダ』世界にはメアリ・シェリーが登場します。彼女は繰り返し主張します。自分がこの複雑な構造を持つ物語を書いたために、自分もまた物語に取り込まれることになってしまったのだ、と。『フランケンシュタイン』は生と死についての物語です。メアリ・シェリーの人生もまた、死に彩られていました。そして『エイダ』では、ついに怪物が現実の存在となり、名探偵に奇妙な依頼をすることになります。
怪物はシャーロック・ホームズに、果たして自分はヴィクター・フランケンシュタインの妻エリザベスを殺したのか、と訊ねます。現実のものとなったホームズは、ワトソンの代理として選んだコナン・ドイルにこう告げます。おそらくは、怪物は無罪であろう、と。
なぜならばエリザベスの寝室は密室であり、気付かれずに怪物が侵入することは不可能であったからです。
そして次のような状況証拠を挙げます。エリザベスの死と怪物の妻を破壊する場面は、物語のクライマックスである。にも関わらず、極めて類似した描写がなされている。通常ならば物語を盛り上げるために違った描写を用いて劇的にするはずだろう。もしかしたらこれは、同じ殺人を二重に描いただけではないか、そしてそのことを暗示するために同様の描写を用いたのではないか、と。
複雑な構造、そして同じ事件を二重に語り直すという点で、『フランケンシュタイン』は「パーンドゥシュ武勲詩」に類似しているといえるのではないでしょうか。そして、あくまでも『エイダ』における扱いにすぎないのですが、「つくられたものがつくったものを超える」という意味で、「ミイル・イリュージヤイ」とも似ています。
そうそう。エンガチョ研究で触れたことですが、日本神話はイザナギとイザナミの役割が奇妙な屈折をしてしまったため、生が死を内包し、死が生を孕む奇妙な状態に陥っています。『エイダ』に登場するエイダ・オーガスタは子宮癌を患い、生命を育むはずの器官が死を育むという皮肉な苦しみを味わうことになりました。これもまた、奇妙な暗合です。
■架空言語
ラピュタ語研究
『天空の城ラピュタ』ビジュアルブックのシナリオ準備稿に、いくつかのラピュタ語サンプルが発見されました。
レジアシオ・ルント・リッナ(ものみな鎮まれ)
シス・テアル・ロト・リーフェリン(失せしもの汝姿を現せ)
訳語が違うものが二点ありました。
バルス(とじよ)
リテ・ラトバリタ・ウルス
アリアロス・バル・ネトリール
(我を助けよ、つわものよ来れ)
イメージボードにはシータのフルネームとして「シータ・トエル・エル・ラピュタ」とあり、二重線で「エル」が「ウル」に修正してありました。
おそらくラピュタ語のサンプルは、これですべてだろうと思います。あとは映像から、石版などのくさび形文字を拾い出して解読するくらいでしょう。
ムスカはラピュタ語辞典を作成していたと小説版にありました。ですから単語そのものはほぼ理解していたはずです。にも関わらず飛行石を扱うための呪文を知らなかったというのは、訳語が示しているように古めかしい言い回しであるか、あるいは柴崎さんのご指摘のように王族専用語に近いものであったのではないかと思います。
訳語の相違で、ネトリールは「来れ」にせよ「よみがえれ」にせよ、彼方から此方へと至ることを命じる内容ですから、問題はあまりないでしょう。日本語に置き換える際の趣味の問題、と片付けてしまうことも可能です。
ですが「バル」「バルス」はまったく意味が違います。これを「準備稿だから」と退けてしまうのはおもしろくありません。現実の語学や歴史学では文献批判の精神が欠かせませんが、架空言語学で文献批判をやりすぎてしまうと、これはこれでおもしろくありません。矛盾を解消する過程が愉しいのですから。むろん、ある程度のところまで進んだら、遡って文献批判をしていくとおもしろいことになると思います。
まず「バル」。
準備稿における用法から、「つわもの」とは光を放つ存在であるとこじつけることができます。実際に目からビームを発射していました。
冗談はさておき、ラピュタの文化的背景として、光を放つ存在への敬意を見出すことが可能です。飛行石は力を発するときに光り輝きます。インドラの矢も光です。ロボット兵はレーザー光線を発射し、このような存在に守られた王族は敬意を払われます。どのくらいかというと、ラピュタにいるのいやになったから地上に降りよう、と宣言したら民衆がそれに従ってしまうほどです。
また、ラピュタの暦に関する矛盾を考えているときに、もしかしたらラピュタ人は宇宙人だったのではないか、という仮説を思いつきました。
ムスカは「700年もの間王の帰還を待っていたのだ。」(後編136ページ)と発言しています。この発言が正しいとすれば、紀元前500年から西暦1200年ごろまでのラピュタはどうなってしまうのでしょうか。
そこでこの発言を、ラピュタ暦での発言であると仮定してみました。それならば問題はありません。
一年が365日でない暦法があるかと思って調べたですが、ヒジュラ暦(イスラム暦)もほぼ365日でした。完全な太陰暦なので364日でしたけれど。以前は閏月を入れていたのだそうですが、コーランの記述に従って廃止した、ともありました。
太陽暦や太陰暦に従うなら、一年は365日前後でしょう。しかしたとえば別の惑星では、太陽暦だったとしても違う日数あるいは時間数になるはずです。仮にラピュタ人が宇宙人だったとするならば、別の惑星の暦をそのまま残していたという可能性があります。
どんどんオカルティックになりますが、ラピュタ人が宇宙人であった、あるいはその超技術を宇宙人から得たのだとすれば、一年は365日以外であったとしてもまるで問題はありません。
ラピュタ人に関する記述はいくつかの文献にありますが、ラピュタ人がまだ天空にあがる前に何をしていたのかは不明です。もしも地上でゆっくりと発展したのだとすれば、地上にそれなりの遺跡を残しているでしょう。ラピュタは残っていたのに、地上にはそれらしきものはありません。
いきなり宇宙人から超技術を伝授されたのだとすれば、このあたりの問題は解決されます。いきなり発展し、世界を支配し、三代目になっていやになって地上に降りた。そしてあっさりと超技術は失われた。なぜなら自分たちで築いたものでないので、基礎的な部分に習熟していなかったから。これならばラピュタに関するいくつかの疑問点はすっきりと解消できます。
そしてラピュタ人に超技術を伝授した宇宙人は、光っていたのです。ウルトラマンだって光の巨人でした。そのため偉大な存在=光を放つもの、という図式ができあがり、意味が変化して「つわもの」の意味でも使用されることがあった、とすれば、「バル」の意味の相違について説明ができます。
「バルス」が「とじよ」となっているという問題ですが、光に対する信仰から説明可能ではないかと思います。ラピュタ宇宙人起源説を取らないとしても、ラピュタに光に対する畏敬の念があったと仮定することは可能でしょう。
通常ならば、何かを「ひらく」ことによって光を見出します。啓蒙とは蒙いを啓くことで、価値観の光をもたらすことです。しかしストロボをたく場合には、焦点は絞る=閉じることになります。終末の光とは、世界の幕を閉じるものである、とするならば、このような転用も生じるかもしれません。
あるいは「とじよ」とは、世界を閉じるということではないのかもしれません。ムスカはあまりのまぶしさに視力を失いました。ですから「これからすごい光が出るから、目をとじた方がいいよ」という意味に解釈することも可能かと思います。
そういえば関係ないですが、
「食らえ!」
「マズい、伏せろ」
という戦闘場面の会話を
「お食べ」
「おいしくないから、やめた方がいいよ」
と解説した小説がありました。
■その他
ここからは、プレイヤーの立場で書かせていただきます。
公開講座のゲーム的な部分については、私も開始当初からいろいろと考えていました。時念度を4にして補習を受ける、というのは、無多口博道のプレイヤーと話し合っているうちに出たアイデアです。ゲームのルールを活用することで、ルールを作った側を操作するのです。それは架空言語の理念──作られたルールを遵守することでルールを作った人すら創造しなかった結果をもたらす──にも合致します。
ちなみに先日提案されたアイデアには、PCみんなで居眠りして、プレイヤーに対してスクーリングしてもらう、というのがありました。関東と関西と、あと希望を取って一ヶ所くらいで実施すれば、少なくとも私と無多口博道のプレイヤーはすべてに参加しますし、それを目当てに公開講座に参加するプレイヤーも増えるのではないでしょうか。いや、冗談ですが(本当は本気ですが)。
時念度というのは、「野望の王国」の日記にもしばしば書いているのですが、ゲーム性を高める優れたアイデアです。「海賊王女の凱旋」における名誉力が、当初は素晴らしいものであると思われたにも関わらず後半はインフレ気味になったりマスター間での上昇率相違により一部プレイヤーの不信感をもたらしたのに対して、時念度はあくまでもプレイヤーが決定するものです。そして0〜9と範囲が決まっています。
NPCと親しくなるためにはNPCと近い時念度を選択しなければなりませんし、異生と戦うためにはある程度まで高い時念度でなければなりません。死にたくなければ低い時念度を選択すればいいですし、アクションを有利にするために図書を読むにも時念度が合致しなければなりません。そして高すぎる時念度、強力すぎる図書は「内なる声」をもたらし、後半戦脱落の可能性をほのめかします。これだけの要素が絡み合うと最適解は存在せず、プレイヤーが適宜決定するしかありません。悩むこと、そして意志決定すること、それはゲームをゲームたらしめる最重要項目です。
逆に、マスターが時念度の最適解を決定してしまうこと、あるいは時念度に応じた描写ができないことは、ゲーム性を損なうものです。プライベで読んで現物は持っていないので記憶だけで書きますが──というのも今回は他のシナリオのリアクションを読まないことにしているからで、公開講座2000ならばそれが可能ですし、大量のリアクションを読むのは重労働ですし、さらに読むと悪口をいいたくていいたくて仕方がなくなるという悪癖があるからなのですが──こんなことを書いていたマスターがいました。曰く、時念度9でなければギャグは書けない、と。
時念度が0であろうとギャグは書けます。アクションにあったようなギャグが書けないというのなら「そのギャグ」と指示代名詞がつくはずです。全力でマスタリング能力の欠如を告白しなくてもよさそうなものです。
このあたり、グランドキーパーや柳川さん、坂マスたちに、しっかりと指導していっていただきたいところです。なまじキャリアの長いマスターが揃っていますので大変かとは思いますが、エルスウェアには期待しているのです。
そうですね、リアクション全文についてのチェックは事実上不可能といっていいでしょうから、【マスターより】だけはチェックをしていただきたいです。【マスターより】はリアクションを書いたあとに緊張から開放されて書くことが多いでしょうから、気を抜いて書くべきではないことを書いてしまう可能性が高いように思います。「時念度9でなければギャグは書けない」などというのは本来ならば書くべきではないことです。各リアクションに原稿用紙2枚程度の【マスターより】がついたとして、マスターが約30名。各マスターが3本ずつリアクションを書いたとして、原稿用紙180枚分のチェックということになります。分速1200文字なら1時間でチェック可能ですので、ぜひ実施していただきたいところです。
マスター教育としては、馬場秀和ライブラリ(http://www01.u-page.so-net.ne.jp/da2/babahide/index.htm)にあるマスターリング講座を読ませることをお勧めします。いや、こんなこと私のいうべきことじゃないんですが、プレイヤーを悩ませること、そして意志決定させることがどれほどゲームにとって重要かが示されています。Webページでは他に、みやかわたけし氏のページ(http://www.hdt.co.jp/staff/t/tak/nwrpg_res.html)がまとまっています。というか海賊王女の中盤、あまりにもひどいマスタリングをする人が多かったため、みやかわさんにテクストのいくつかをエルスウェアに送りつけるようそそのかしたことがあります。
同時に、プレイヤーに対する教育も行っていっていただきたいです。これも無多口博道のプレイヤーがいっていたことですが、公開講座2000はアクションの自由度が高く、すべてのPCに平等であり、何よりもリアクションがおもしろいです。しかしながら参加者数は第3回でわずか11名。テーマが難しいということもあるかもしれませんが、小説形式リアクションに慣れてしまい、それ以外のもののおもしろさを感じられない、あるいはそもそもそうゆうものがおもしろいとは思えない人が、あまりに多くなってしまったように思います。
小説形式リアクションはいくつもの制限があります。その制限の中で表現していくのは魅力的な挑戦ですし、傑作が生まれることも否定しません。安易に小説形式を捨て去ることに反対するマスター(たとえばみやかわたけし氏がそうであるようです)が存在するのは納得できることです。
しかし小説形式リアクションはあくまでもメイルゲームの可能性のひとつに過ぎないことを忘れてしまうと、問題です。その結果が公開講座の参加者数に現れてしまっているのではないでしょうか。「海賊王女の凱旋」では、柳川シナリオに参加したがる人が多数いたというのに。
正直な話、私はネット88と蓬莱学園の熱狂を目の当たりにしながらも参加できなかったゲーマーでして、当時の熱気は再現されていないものの、当時に理想としていたものを追体験できる公開講座2000は、これまで参加した商業メイルゲームの中ではもっともおもしろいものなのです。ええい、どうして世間の連中はこのおもしろさを理解しようとしないのだ、とばかりに怪奇散歩男に変身してプライベなどで布教に努めているのですが、今のところさっぱりです。リアクションを読みたがる人は多く、情報提供してくれる人も少なくないのですが、それほどおもしろいのなら参加してみようという人はてんでいやしません。
ですから「ホトリ画報」9月号「緊急初心者講座」にて公開講座2000が紹介されなかったことには納得がいきません。固定観念を持っていない人ならば、きっと愉しめるでしょうに。「ホトリ画報」は残念ながら情報量が泣きたくなるほど少なく、一年に一度くらい押し入れから引っぱり出して読みたくなるような内容ではありませんが、少ないながらも紙面を活用すればプレイヤーの固定観念をもみほぐしていくことはできるのではないかと思います。
話が明後日の方向に飛んでいってしまいました。こんなもんアクションじゃねえ、とばかりにジャックナイフで切り裂かれても文句がいえない気がしてきました。いやでも、これは【マスターより】に対するアクションなのです。
さて、公開講座2000のゲーム性を高める理想的な方法。それは受講者数を少なくとも今の十倍に増やすことです。そうすればアクションの多様性は自ずと確保されますし、すでに述べた時念度システムのゲーム性を活用することができます。
今の状況ですと、図書を読むことにメリットはありません。また「内なる声」がつくことにデメリットはありません。なぜなら「内なる声」によりアクションが無効になることは、すなわちアクション数の減少であり、報告の多様性すなわちおもしろさが減ってしまうということだからです。私は今回、依頼されたので時念度を0にして、図書を読まないという選択をしてみました。もしかしたらこれが「内なる声」を減らす方法ではないか、といわれているからです。このようなことをしたとしても、まるで問題が生じないのが公開講座2000です。
しかし受講者数がこの十倍以上になったならば、プレイヤーに危機感が生じます。数による競争がプレイヤーをあせらせます。少しでも有利になるようにしたいと考えるのがプレイヤーというものです。そしてこれを利用して、たとえば時念度がある数値でなければ雑談に参加できないようにしたり、「内なる声」が多くついているPCを強制収容した別室リアクションを作成したり、あるいは今回ほのめかされている『施療院』読書会のように図書『施療院』を読んでいないと参加できない補講を設定するなどということができます。もちろんそうなったら、私とてこのようにだらだらと長いアクションを書くことなく、抑制のあるものにしますので、膨大なアクションを読む苦痛はさほど増加しないと思います。いざとなったらアクションの文字数制限を行えばいいのです。枚数制限はお勧めしません。芥子粒のような文字で印字するプレイヤーが増えるだけです。有限資源の活用、すなわち文字数制限の中で巧いアクションを作成するということも、ゲーム性を高めます。
受講者を増やすことについては、「ホトリ画報」に投稿するなどして、私もいろいろと策謀しております。ゲーム性云々を差し置いても受講者数はもっと欲しいですし。受講生確保で手っ取り早そうなのは小説版に受講生の名前を出すことだと思うのですが、このあたりは私欲が絡んでくるので強くはいえません。
もうひとつ、これはすぐにでも実行可能なことがあります。柳川さんの名前を「ホトリ画報」おくづけのマスター一覧に載せるのです。原案・プロデュースにすでに名前がありますが、二重に載せたって問題があるわけではありません。そして「マスターファイル」に、一行でいいから何か書くのです。9月号を見る限り、柳川マスターが何か書く程度のスペースは空いています。大丈夫です。頑張ってください。
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